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船祭由来
高麗山を背景とし、花水の清流に臨んだ桜並木の奥に鎮座する神社こそ、大磯町民を護る御社高来神社です。
古老達は同社を高麗神社、高来神社、権現様とよびあがめております。伝説によると神武天皇の勅命により神皇霊神ニニギノ杵尊を祀り、安閑天皇二年(第二十七代)の御代に、応神天皇、神功皇后を合祀したと伝えられ、四柱の神が祭神です。
氏神に応神天皇と神功皇后が合祀されていることから、現在でも五月節句(のぼり)の絵は氏神に遠慮して使用しておりません。何時代の頃か、大磯唐ケ浜(現照ケ崎)の沖合で昼夜光を放ち、四方を照らす物がありました。或る日漁に出た漁師の網に藻屑と共に光まばゆい観音様が引揚げられ、当時の者は仏像を見た者は一人もなく、不思議に思いました。両手数多く女体をなしていたと言います。以来この浜は照ケ崎と名付けられ、明治十八年日本最初の海水浴場として、日本全国に知られる様になりました。

「船祭木遣」の中に
●南浜「観音様」
応神天皇十五代の御時より、大磯浦のかつぎ船、渡世の漁に出でかけるが、不思議や海中光あり、うづ巻く波の中よりも、小鮹一つ泳ぎ来て、かつぎの船に近づきて、乗るよと見えし不思議やな、鮹ではあらん船のへに、千手千眼の観世音、光明輝き立給ふ、船の者共伏し拝み、そのまま水際に船は寄せ、盛奉る、拝み上げ、かりやをしつらえ、経を読み、くせんくんじゅうなし給ふ、鮹の光りし浦なれば、鮹井の丞浦おば、照ケ崎とは是を言ふなり。
●北浜「船祭」
そもそも大磯の船祭の由来、昔高来さんじゃ大権現の、御本寺千手観音、海中に出現おわします其の時に、漁師加藤は鮹之丞、盛り上げ奉る、照ケ崎にて漁船にうつし奉る、今だ其の古跡残りて、二隻の船を造り立て、すなわち高来権現を、乗りうつらせ給う御船をば、権現丸と名付けたり。
扱それよりも後船をば、高来寺鳥居の前に引付けて、あら目出度の船歌で声もろ共に御神輿入れさせ給いつつ、通り木遣りを唄いつつ、照ケ崎までお供して御船を引付け奉る。此々に高来権現の一首の御詠歌有るぞかし。
ひのもとの、ふくじゅのうみは、こうらいじ
ゆききのひとの はこべあゆみなよ
船名主始め皆で相談の結果、高麗山中に負い来て奉祀し是れが今の下宮で、鶏足山雲上院高麗寺です。
そして此の千手観音が引揚げられた日が、七月十八日であるので昔をしのんで、二隻の天鶏船を造り、帆幟、籏を、立てて木遣りを歌い、南下町は権現丸、北下町は観音丸と名付け花水川に入り、御輿の御迎を吉例としましたが、ある年台風の為に、陸にあげ車を添えて、隔年毎に祭を行う様になりました。
●南浜「権現丸」
そもそも高麗大明神の由来を詳しく尋ぬれば、応神天皇十五代の御時に海中騒がしく、浦の者共怪しみて、はるかの沖を見てあれば、唐船一隻八ツの帆を揚げ、大磯の方へ梶を取る、走り寄るよと見る内に、程なく水際に船はつき、浦の漁船、漕ぎよして、かの船の中よりも、翁一人立ち出て、櫓に上りて声をあげ、汝等其れにて、良く聞けよ、我は日本の者にあらん、もろこしの高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て大日本に心掛け、汝等きえする者なれば、大磯浦の守護となり子孫繁昌守るべし、あら有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗りうつり、揚がらせ給ふ御代よりも、明神様(権現様)を乗せ奉まつる船なれば、明神丸(権現丸)とは此れを言うなり。
南下町が権現丸、北下町が観音丸でしたが、何時代頃か権現の濫用を禁ぜられ、勅許の神号となり、以来両町共に明神丸となりました。
神々が他の地より、来臨して人々のくらしを守り、なりわいを助けるという信仰は、古代人の心に生きています。或る時は天上より訪れるという等、古事記、日本書紀等にも多く書かれています。
海を生命とする漁民にしてみれば大漁祈願のために海岸で式を挙げるのだと考えたなら、形式は古くとも、立派に意義があり、飾船を出して祭る様も、神功皇后が征韓され、目出度凱旋した様子を伝えるとの説もまたふさわしいと思います。
大磯町観光協会
御船祭保存会
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